本活動報告には課題図書の結末について触れる箇所がありますので、未読の方はご注意ください。
今回の課題図書はゼーバルト『移民たち』でした。
本書では、4人の移民と彼らを知る者の語りと、移民たちの過去を追いかける「私」の語りが入り乱れます。フィクションとはいえあからさまな嘘に思われる記述が意図的に挿入される個所があれば、知識があれば想起されることがもっとあるだろうとだけわかる細かな描写もあります。読書会では、意図的に語られていないことや登場人物の記憶のあいまいさを受け容れながら自らも移民である「私」がたどる道筋を追っていくなかで、移民たちの失くしたもの、寄る辺なさ、悲しみについて考えることになりました。
ゼーバルトは間接的、抑制的に書き、出来事と「私」の間に時間的距離を取らせることで、読者が目を背けたくなる深刻なテーマ――戦後を生きる人間がホロコーストの事実と記憶にいかに対処するか――に自然に向きあわせることに成功しています。その一方で、どこか疑わしい写真を挿入したり、作り事めいたモチーフをいくつかの章で登場させたりすることによって、絶えず本書がフィクションであることを示唆し続けます。読書会に参加された複数の方が、作品の構造に惹かれ、他の作品だけでなく著者自身についてもっと知りたいとおっしゃっていたのが印象的でした。
参加者の方のコメントの一部を以下に。
- 作品全体について
- 4人は死んではいるが、作品の中に亡霊のように漂っている。
- 副題の「四つの長い物語」とは。ページ数でないのは確か。
- 細密な描写がおもしろくもあり読みづらくもあった。
- 自分も他人も理解/説明できない心の傷の話なので、伝聞形式でないと、そして戦後何十年も経過しないと成立しない作品。
- 語り手の思考に合わせて読み手も考えていける。
- 記憶について
- 出ていかざるを得なかった人々が去った後、消え去ってしまう記憶を救い取っている。
- 人間が記憶しているのは具体的な断片だが、聞き手が受け取るときに曖昧性が高まる。
- 幸せな記憶が痛みになる。
- 移民の人生を追いかけずにいられない「私」の抱える記憶は何だったのか。
- 蝶男=ふわふわした記憶を追いかける者。
- 写真について
- 写真に写っている名前も出てこない人たちの人生についても考えてしまう、重層的な小説。
- キャプションがついていないから、掲載されているページのエピソードとは無関係かもしれない。
- ジャーナリストの職業的取材結果ではない/職業的取材では取り上げられない、市井の人たちの物語であることを示している。
- 怪しげな写真は嘘が混じっているという作家の宣言ではないか。
- 故郷を離れることについて
- 「遠くまで来たけれど、どこからかはわからない」という言葉が繰り返しあらわれる。長らく国を持たなかったユダヤ民族の寄る辺なさがあるのか。
- 「私」と著者は、彼らも移民という点で4人と重なっている。
参加者の今回のおすすめ・話題になった本や映画はこちら。
次回の課題図書はナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、9月24日(土)15:30からの開催です。申し込みについては、こちらのブログで別途ご案内します。
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